現代でも飲まれている蒸し製緑茶が誕生! 江戸時代

コラム

江戸時代に入ると、現在のような煎茶が誕生します。それまでは「お茶」といえば現在でいう抹茶のことでした。煎茶はサッパリとしていてどんな食事にも合い、いつでも気軽に飲むことができます。

蒸し製緑茶をはじめとする江戸時代の日本茶を見てみましょう!

煎茶の誕生

室町・安土桃山時代のころは、庶民も抹茶を飲んでいたことが記録に残っています。しかし、茶道が完成され、政治に利用されるようになってくると、庶民には手が届かなくなってしまいます。

そこで代替品の「煎じ茶」が生まれます。摘んだ茶葉を加熱後、天日乾燥し、その煮出し汁を飲んでいたそう。現在の煎茶からは程遠く、茶色や赤黒いお茶だったといいます。味も粗末なものだったと伝わっています。

そんな中、永谷宗円が蒸し製緑茶の製法を編み出します。宗円の生み出したお茶は澄んだ黄緑色で、ふくよかな香りを持ち合わせたものだったとか。江戸っ子はたちまち蒸し製緑茶のトリコになってしまうのです。

永谷宗円(ながたにそうえん)とは?

永谷宗円は山城国(京都)宇治の農家に生まれ、農園には立派なお茶の木があったといわれます。しかし当時、抹茶の栽培は宇治の指定茶園のみに限定されていました。指定茶園でなかった永谷家では、粗末な煎じ茶を産出するしかなかったのです。

抹茶も、煎じ茶も、もとは同じお茶の木から作られるもの。本当のお茶の味を知っていた宗円は、どうにかして煎じ茶を美味しくしたい、と考えます。抹茶の製法や、当時の中国茶をヒントに、蒸したのち、揉みながら乾燥させる、という手法を思いつきました。

さらに古い芽は使わず、やわらかな新芽だけをつみ取って使うことで、さまざまな問題をクリア。15年という歳月をかけ、宗円が生み出した蒸し製緑茶は「青製煎茶」「永谷式煎茶」と呼ばれます。これを抹茶のメッカ・京都ではなく、江戸で販売したことで、反響が反響を呼ぶ大ヒットに。

「煎じ茶」と「永谷式煎茶」の違い

煎じ茶と永谷式煎茶の大きな違いは「香り」にあったといわれます。当時、煎じ茶はムシロの上で天日干ししていたので、ムシロからワラの香りが移り、おひさまの香りがしてしまったのだとか。

また、天日乾燥では表面ばかり乾燥してしまい、内部に水分が残ってしまうことも多かったといいます。そのため劣化しやすく、味や香りもすぐに悪くなってしまうものでした。

こうした問題を解決するためには「揉みながら乾燥させる」のが一番だったのです。揉むことで水分を絞りながら形を均一にそろえ、乾燥の進み具合をそろえ、緑色を保ったまま完全に乾燥させることができます。

宗円が編み出した永谷式煎茶はまたたく間に日本中へ広がります。その後も研究が重ねられ、現在のような製法として完成されることになるのです。

玉露の誕生

江戸の商人・四代目山本嘉兵衛は、宗円の蒸し製緑茶に出会い、いたく感激します。「天下一」という名前をつけて販売したところ、ひと山築くほどの利益を出したとか。翌年以降も販売を約束し、宗円のもとへは毎年謝礼金を送ったそうです。

その後、六代目山本嘉兵衛は抹茶の栽培法である「覆下栽培」を、蒸し製緑茶・煎茶にも応用することを思いつきます。覆下栽培とは、収獲前の一定期間、お茶の木をすだれや黒い布で覆うことで、うま味が強く、深い緑色のお茶をつくることができるというもの。

抹茶の製造は限定されていましたが、抹茶の製法を煎茶にも用いることは禁じられていません。嘉兵衛があるとき、覆下栽培をした煎茶葉をみずから揉んでいると、玉のように丸くまとまり、甘露のような甘味を感じたとか。これが現在にいたる「玉露」のはじまりです。

甘露(かんろ)とは?

甘露とはアジアの古い伝説で、天から降ってくる甘い雨を言います。神々は甘露を飲んで暮らしていると言われ、また、よい天子がおさめる治世に甘露が降るといわれました。

日本では甘いものや美味しい飲み物を甘露と呼ぶようになり、今でも甘く煮詰めたおかずを「甘露煮」と言ったり、甘いお酒を「甘露酒」と言ったりしますね。山本嘉兵衛が作った玉露は大変上質な煎茶とされたため、現在もよい煎茶を甘露と呼ぶことがあります。

玉露とは?

一般的な煎茶は、お茶の木に日光をたくさん当てて育てます。そのためにカテキンが多く生成され、渋味が出ます。渋味とうま味、香りなどのバランスがよいと、さわやかで飲みやすい煎茶になりますが、渋味が強すぎると飲みにくくなってしまいます。

そこで茶葉をつみ取る前の2週間程度、お茶の木に覆いをかぶせ、日光をさえぎります。するとうま味成分のテアニンが多く残り、覆下栽培特有の「覆い香」が生まれます。まったりとして濃厚な甘味を感じるのも覆下栽培の特徴。淡い黄色やクリーム色と表現されるようなお茶です。

山本嘉兵衛とは?

山本嘉兵衛商店は、もとは紙やお茶を扱う「鍵屋」でした。花火のときに「かぎや」と掛け声をかける、あの鍵屋です。なお、代々の頭首が山本嘉兵衛の名を受け継ぐならわしで、永谷宋円から蒸し製緑茶を買い付けたのは4代目。玉露を作ったのは6代目です。

山本嘉兵衛商店は、のちに「山本山」と屋号をあらためます。和紙の扱いにたけていたことから、当時は高級品だった海苔(のり)を板状に加工することを思いつき、財を成しました。現在も株式会社山本山としてよく知られています。

ちなみに、4代目嘉兵衛が出会った蒸し製煎茶の永谷宗円。永谷家は蒸し製緑茶の販売で財を成し、その後子孫の永谷嘉男が「永谷園」を創業します。永谷園と言えばお茶づけ海苔で有名な老舗食品メーカー。お茶と海苔を組み合わせるなんて、永谷宗円と山本嘉兵衛との運命的な出会いを連想させますね。

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