日本茶文化の大革命。茶の湯、わびさび文化 室町時代から安土桃山時代

コラム

室町時代から安土桃山時代にかけて、日本茶は大きく進化をとげます。茶聖・千利休の登場です。鎌倉時代に宋(中国)から上陸した禅仏教の儀式「茶礼(されい)」を日本風にアレンジし、「茶道・茶の湯」が完成!

室町・安土桃山時代に起こった日本茶の大革命。千利休を中心に、じっくり見つめてみましょう。

室町時代のお茶文化

室町時代には「闘茶」が大ブームを迎えていました。闘茶とは、お茶を飲んで産地を当てるゲームのこと。といっても、答えは「本茶」「非茶」のふたつにひとつです。

本茶とは栂尾(とがのお)で生産されたお茶のことをいい、非茶とはそれ以外のお茶。栂尾は霧深く、良質な茶葉が生産されたそうです。そのため本茶として人気が出たといわれます。

やがて栂尾以外の各地でもお茶の生産技術が向上しました。中でも宇治茶の評判は高く、三代将軍・足利義満が特に気に入ります。義満は宇治茶を奨励し「宇治七名園」と呼ばれる茶園をつくらせました。これが現在にいたる宇治茶ブランドの起源です。

「覆下栽培」と呼ばれる栽培方法が誕生したのも、このころのこと。収獲前の数日間、茶園をすだれで覆い、日光をさえぎります。これによってうま味が強く、色鮮やかで濃い緑色の茶が作れるようになりました。現在の抹茶の始まりです。

北山文化とお茶文化

鎌倉幕府が滅亡後、室町幕府をひらいた足利家は「北山文化」を花開かせます。それまでの伝統的であった公家文化に、武士の世界観をプラスしたもので、当時の中国(明)の影響も受けています。

北山文化の代表といえば、やはり金閣寺。1397年に三代将軍・足利義満によって建てられ、現在は観光地として世界的に有名です。金閣寺には茶室が備わっており、すでにお茶を飲むことが一般的だったとわかりますね。

といっても、当時は「書院の茶」と呼ばれ、茶道具や掛け軸、花などを飾る書院だったのだとか。これは中国の仏教で行われていた茶礼(されい)の影響を受けたもので、現代の茶道にも通じるものがあります。

八代将軍・足利義政が建てた銀閣寺には、日本最古の茶室があります。四畳半の畳部屋の中心に囲炉裏(いろり)があり、お湯を沸かしてお茶をふまったようです。

安土桃山時代のお茶文化

安土桃山時代に入ると、村田珠光(じゅこう)により「わび茶」がつくられます。わび茶とは華やかな装飾をはぶき、質素簡潔をよしとするものでした。中国産の唐物(からもの)を避け、日本産の和物(わもの)が好まれるようになっていきます。

その後、武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休(せんのりきゅう)などが「茶道・茶の湯」を完成させます。このころのお茶は「わび茶」と呼ばれ、華やかな装飾をはぶき、質素簡潔をよしとするものでした。

唐物(からもの)と呼ばれた色鮮やかな中国産のものよりも、無地で地味な和物(わもの)が好まれるようになり、日本独自のお茶文化を築いていきます。利休は織田信長に厚遇され、「茶聖」としてあがめられるほどに。

やがて織田信長は茶会を政治に利用するようになりました。宇治茶園を徹底管理し、戦乱の恩賞として茶道具を与える時代の到来です。宇治茶ブランドの勢いは増す一方で、高級茶としての地位を固めていきます。

わび茶をつくった村田珠光(むらたじゅこう)とは?

村田珠光は、室町中期の禅僧です。応仁の乱のさなか、東大寺のそばに庵(いおり)をひらき、隠遁生活を送ったと伝わります。そこで極められたのが茶の湯だったのです。

武家の間では、闘茶や茶礼などの中国文化が広まっていましたが、庶民の間では地味で簡素な茶の湯が広まっていました。庶民のお茶文化や、珠光自身が経験した禅思想を合わせ、珠光はお茶文化を日本らしくアレンジします。

四畳半というあえて狭い茶室をえらび、象牙や銀製の茶道具を竹製のものに、うるし塗の棚を木地に。地味な茶道具をいかに唐物(中国産のもの)と融合させるか、が珠光のテーマだったようです。珠光が好んだ茶道具は、やがて「珠光名物」と呼ばれました。

わび茶を完成させた武野紹鴎(たけのじょうおう)とは?

武野紹鴎は、もとは堺(大阪)の商人でした。このころ、応仁の乱がもとで力を失った朝廷に代わり、商人が明貿易に乗り出すようになり、貿易で莫大な財産を築いた豪商たちは、歴史的にも大きな存在感を持ちはじめます。紹鴎もそのひとりだったのです。

30歳のころ、紹鴎は禅寺に出家します。このころに村田珠光に出会い、茶道の弟子になったとか。わび茶をきわめようとした珠光は、非常に美しい鷺(さぎ)の絵をあえて古くさい表紙に差し替えたと伝わります。紹鴎はこの鷺の絵に大変感銘を受けたそう。

珠光は四畳半の茶室を考案しますが、紹鴎はそれをさらに進化させ、茶室は北向きがよいと主張しました。なぜなら、室内が明るすぎると、ただでさえ質素な茶道具が余計に貧相に見えてしまうため。窓の位置にも注意が必要としています。

茶聖・千利休とは?

千利休は、言わずと知れた茶道の大家ですよね。17歳から茶道を習い始め、やがて武野紹鴎の弟子になったと伝わります。このころは茶室の建築がさかんで、利休のころには露地(茶室の庭園)を合わせるようになりました。

茶室、露地、茶道具…あらゆる要素を組み合わせ、満を持して千利休の茶道が完成します。高額なものよりも価値の低いものを愛し、利休みずから竹茶杓を削ったり、手でこねた茶碗を焼きました。

高価なもので飾り立てるのではなく、あえて質素なものを選ぶことで、客人のためにより心をつくすことができ、また、その心をストレートに伝えることができます。利休がつくった空間は、人と人が心の底から触れ合える充実した時間を生み出したのです。

命が軽んじられる戦国時代。利休の茶道は人々にとって、欠かせないひとときだったのかもしれませんね。

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