いよいよ始まる日本茶の産業革命! 明治時代~昭和初期

コラム

明治時代、緑茶は生糸とならぶ重要な輸出品になっていました。しかし当時、お茶は手作業での加工だったため、手間がかかる割には利益の少ない産業でもあったのです。

そんな中、いよいよ日本茶の産業革命がおこります。明治~昭和のお茶の歴史をのぞいてみましょう!

日本茶の産業革命とは?

明治維新を機に海外から多くの技術が入ってきた日本では、石炭・鉄鋼・造船などの分野が急速に発展していました。これら重工業はあらゆる産業の基礎でもあります。お茶の輸出価格は次第に低下していき、お茶農家は苦しい経営を強いられるようになっていきました。

そのころのお茶農家では「集団茶園」が形成されていました。そもそも茶園経営は山を切り開くところから始まります。ばくだいな費用がかかる上、登って降りて…の作業を繰り返すため、労力も大変なものでした。個人経営では限界もあったのでしょう。

そこで、いくつかの農家が共同し、それぞれの茶園を手伝うようになりました。茶園を整備し、流通やお茶問屋などの発展にもつながっていきます。そんな中、明治16年に高林謙三が焙茶機を発明。以来、お茶産業にはあらゆる機械が発明されるようになり、日本のお茶産業は革命期をむかえるのです。

高林謙三の茶揉み機とは?

高林謙三は、現在の埼玉県で貧しい農家に生まれました。若いころは医者を志し、一財を築きますが、あるとき一念発起。医者を辞めてまで研究と発明を繰り返し、明治16年にとうとう焙茶器を発明。緑茶を焙じてほうじ茶を作る機械で、大変評判がよく飛ぶように売れます。

これを皮切りに、茶揉み機、生茶葉蒸し機、茶葉乾燥機などを発明し、数々の特許を取得。ちなみに日本における民間特許第一号は、高林謙三の製茶機なんですって!明治31年には静岡県掛川市に工場を創立。掛川といえば「深蒸し茶」で有名なところですよね。工場は現在も丸松製茶場の名で稼働しています。

茶揉み機を発明した高林謙三は、全国の茶農家、茶商とのつながりを持つようになります。中でも丸松製茶場で生産するお茶の評判は高く、全国から注文が絶えません。次第に謙三は、製茶問屋としても活躍するようになっていきました。

高林茶揉み機VS日本一の手揉み職人

産業革命が次々と起こる日本では、ある種のブームが巻き起こっていました。それは「人間VS機械」の真剣勝負。師匠に弟子入りし、自らの技能を生涯かけて高めていく「職人」は、なんの苦労もなく誰でも同じ技が使えるという「機械」に対して納得がいかず、勝負を持ち掛けます。

機関車とトップアスリートが速さ比べをしたり力比べをしたり…という話を聞いたことがある方もいるのでは?お茶の世界にもそんな熱きバトルがあったのです。高林式製茶機に勝負を挑んだのは、日本一の手揉み茶師・大石音蔵。

品質・製造時間という審査項目で勝負したところ、高林式製茶機の圧勝という結果に終わります。さらに、この勝負によって日本中に高林謙三の名が知れ渡ったのです。音蔵はその実力をみとめ、高林式製茶機を故郷に持ち帰ったと伝わります。

茶摘みばさみの誕生と普及

日本のお茶産業に革命をもたらしたのは、高林謙三だけではありません。大正4年に内田三平が茶摘みばさみ(茶刈りばさみ・ちゃっかりばさみ)を発明します。高林式製茶機が普及するにつれ、お茶の生産効率が格段にアップし、同時に大量の茶葉が必要になりました。

当時、お茶の摘採(収獲)は手作業が主流でしたが、それでは生産が追いつきません。そこで静岡の菊川で鍛冶をしていた内田三平が、茶摘みばさみの発明を思いつきます。はさみの片刃に袋がついていて、切った茶葉がそのまま袋の中に落ちる仕組みです。

昭和初期にはお茶生産が非常に活発化しており、輸出量も2万トンを超えていたといわれます。茶摘みばさみの売れ行きも大変好調だったとか。茶摘みばさみが普及するにつれ、手作業で茶葉だけをしごきとる方式から、茎も一緒に4枚前後の若葉を刈り取る方式に変化していき、次第に製茶機も茶摘みばさみに合わせて進化していきます。

戦後、茶摘みばさみはさらに進化を遂げ、動力摘採機、自走式茶摘み機も生まれました。なお、三平は「内田刃物工業」を創業。現在でも三平の孫が茶摘みばさみを作りづつけています。

昭和初期の日本茶事情

産業革命をへて発展してきた日本茶産業ですが、インド紅茶・セイロン紅茶があらわれてからは衰退していきます。輸出よりも国内での消費がメインとなり、じょじょに国民の生活になじんでいきます。

急須(きゅうす)が家庭に普及したのも、大正~昭和初期のことだったといわれます。もとはお酒やお湯をあたためるための道具で、直接火にかけていたそう。江戸時代は急須に茶葉をいれ、直火でお茶を煮出していました。これ、なにかに似ていませんか…?そう、ヤカンです。急須はもとはヤカンだったのです。

急須といえば、内部に茶こしがついた形状が一般的。これは日本独自のものなんですよ。家庭にお茶や急須が普及するにつれ、日本家庭にあわせてヤカンは急須に進化を遂げたわけです。お茶の歴史は飲み方の歴史とも言えますね。

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