裏千家、表千家、武者小路千家…これらはすべて、茶道の流派。茶道における根本的な姿勢やおもてなしの心は変わりませんが、細かい作法に少しずつ違いがあります。形は違えど、いずれも茶道の大家・千利休の考え方を現代に受け継ぐ流派なんですよ。
三千家をはじめとする茶道の流派をご紹介します。
三千家とは?
現代の茶道の流派のうち、表千家、裏千家、武者小路千家を合わせて三千家と呼ぶことがあります。いずれも千宗旦を始祖とする「宗旦流」の流れをくんでおり、徹底したわび茶が特徴です。わび茶とは、簡素・質素を極めた状態の茶道をいいます。
千利休の死後、利休の実子・千道安が継いだ本家(堺千家)は跡取りに恵まれず断絶。そののち、利休の養子・千少庵と、その息子・千宗旦は「宗旦流」と呼ばれるようになりました。宗旦の息子たちが三つの流派に分かれていきます。
宗旦の三男・宗左は宗旦流を正式に継承しますが、のちに四男・宗室が宗旦流の裏にある庵を継承したため「裏千家」と呼ばれるように。対して宗旦流は「表千家」と呼ばれるようになります。
その後、宗旦の二男・宗守が京都の武者小路に「武者小路千家」をおこします。宗左、宗室、宗守らは利休から数えると四代目なので、ひ孫にあたりますね。
表千家(おもてせんけ)とは
表千家とは、利休のひ孫・千宗左(せんそうさ・せんのそうさ)がおこした茶道の流派です。宗左が建てた庵と合わせて「表千家不審菴(ふしんあん)」と呼ばれることも。堺千家が断絶して以来、表千家のことを指して「本家」「千家」ということがあります。
表千家は保守的な流派で、地味なものが好まれるといわれます。禅僧が座禅を組んで悟りをひらくように、稽古(けいこ)を繰り返し、極めることを目指していきます。教科書はなく、口伝えで脈々と受け継がれてきたそうです。
まずは薄茶を点てる点前(たてまえ)をはじめに、だんだんとステップアップしていき、その過程で免状を取得します。濃茶の飲み方や点て方まで習得するには、数年間かけるんだとか。
表千家は薄茶もあまり泡立てず、宗左が継承した形を受け継いできています。
江戸千家(川上家)
江戸千家(川上家)は、表千家から派生した流派です。川上不白(ふはく)は京都で表千家流茶道を学んでおり、江戸にもどって庵をひらきます。不白は江戸の大名や商人に茶道の手ほどきを行うようになり、江戸千家と言われるようになりました。
堀内家長生庵(ほりのうちけちょうせいあん)
堀内家長生庵は、表千家から派生して大阪で広がった流派です。もともと俳人をしていた堀内仙鶴(せんかく)は、表千家で茶道を学ぶようになります。俳人としての知名度が高かったことから、当時の茶人たちの間では注目の的だったといわれます。
裏千家(うらせんけ)とは
裏千家とは、利休のひ孫・千宗室(せんそうしつ)がおこした茶道の流派です。裏千家の「今日庵(こんにちあん)」は宗室の父・宗旦が建てたものですが、建てられたのは表千家の宗左が不審菴を建てた後のことです。
表千家が免状を取得するのに対し、裏千家は許状を取得します。免状は実力を認められ、また証明するものですが、許状は「稽古することを許可する」もの。より広く、多くの人が、分かりやすく茶道を学べるようになっています。
裏千家は現在、日本でもっともメジャーな茶道の流派となっています。300万人の茶道人口のうち、半分は裏千家といわれるほど。習い事や体験教室など、気軽に茶道に触れられるスタイルがその理由でしょう。
華やかな着物を好み、薄茶をフワフワに泡立てるのが特徴です。茶道といえば裏千家をイメージする人も多いのではないでしょうか。
速水流(はやみりゅう)
速水流は、裏千家から派生した流派です。天皇家に使える医師の家計だった速水宗達(そうたつ)は、裏千家で茶道を学びます。皇族の茶道指南役をつとめ、茶道に公家文化を取り入れた独特の茶風です。中には茶杓を使用しない点前もあるんだとか。現在では各国の大使に茶道を手ほどきすることも多いようです。
大日本茶道学会(だいにっぽんちゃどうがっかい)
大日本茶道学会は、裏千家から派生しました。そもそも利休のころには茶道の流派などなかったことから、各流派が交流し、それぞれの良いところを自由に取り入れていく研究会としています。
武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)とは
武者小路千家は、利休のひ孫・千宗守(せんそうしゅ)がおこした茶道の流派です。京都の武者小路に官休庵(かんきゅうあん)を持っています。装飾をはぶき、無駄のないシンプルな動きを作法としています。
伝統や形式に固執することなく、時代が求める茶道のあり方を追求しながらも、利休のわび茶を損なわぬ柔軟な流派を目指してきました。薄茶はあまり泡立てず、地味な着物を好みます。
千宗易(そうえき)とは?
千利休の家系には「宗」の字がたくさん登場するのにお気づきでしょうか?これは利休の法名「千宗易」からきています。法名とは戒名ともいい、当時は生前から法名を持っているのが一般的でした。
利休を名乗るようになったのはごく晩年のことで、子孫の多くは「宗」の字を受け継ぐのが慣例です。
三千家以外の流派
利休の養子・少庵やその息子・宗旦から続く宗旦流は、千家以外にもひろく受け継がれ、いくつかの流派に発展しています。
利休以前にも奈良流、東山流、堺流などの茶道があり、利休は堺流の武野紹鴎に茶道を教わり、奈良流を手本にしてわび茶を完成させたといわれます。東山流は水墨画で知られる能阿弥が考案したものです。
武家茶道とは
また、多くの武人に愛された茶道は、それぞれの好みや家風に合わせた流派を形成して「武家茶道」と呼ばれるようになりました。中でも石州流、三斎流はさらに多くの流派が存在します。
織田信長の弟とされる織田長益が開いた有楽流では如庵という茶室を持っており、現在は国宝となって愛知県犬山市に移されています。これら武家茶道の多くは、利休のころに生まれ、 それぞれの藩や大名が独自で受け継いできました。
ほかには久田流、南坊流、織部流、遠州流、上田宗箇流、鎮信流、不昧流、小笠原家茶道古流、安藤家御家流…といった流派が知られますが、武士の世が終わったのを機に歴史から姿を消した流派もあるようです。茶道の流派とは、時代とともに移り変わってゆくものなのかもしれませんね。